昭和52年08月15日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食うものが多いが、この方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
神様を生活のために使うと言う事。どうぞ商売を今日も繁昌致しますように。どうぞお野菜がよくできますようにと、まあそういう願いをみんな致しますけれど、そういう願いが、私は神様を商法にしておるような信心だと思うですね。家繁昌子孫繁昌を願えと、だから商売繁昌も願ごうてよいわけですけども、問題はその芯の所です。ただ商売がどうぞ繁昌しますようにというのは言うならば。
神様を商売に使おうという魂胆にしかならんのです。ですから神様が例えばお野菜でも作って下さるんだと、私共はその草を取ったり肥料をやったりするだけなんだと。神様がお野菜はお野菜だけではないですけど。作物でも全てのものが神様が作って下さるんだと。神様のおかげで出来るんだと。私はこの観念をね商売の上にもそれを頂ける様になった時が本当の商売であり、本当の繁盛のおかげを頂ける時だと思うですね。
お野菜を作る。私が作ったというのではない。それはあなたが肥料を施したり種を蒔いたりしただけの事。作って下さるのは天地の親神様のお恵みによらなければならない。この理が本当に分からせてもらうと、全ての点にですね分かってくるのです。今日は商売を例えば商法にしてはならないと。まあ「御神符」というですか、お守り様を売ったり御祈祷料を取ったりいたします。これはまあ一般にそう神社仏閣なんかは、それで生活が出来ておられるわけであります。所が金光教の信心は銭金では拝まんと。
それこそ、ビリグイの現地の人の言われるように、どんなにおかげを頂いても、お礼に見えてもお供えをされない。そして言われることはね、どうぞ先生お礼は神様から貰って下さいと、こう言うのだそうです。だから末永先生もそれを言ってます。本当にそれが本当だと言っております。神様から頂くお礼。取次者がおかげをやった訳ではない。取り次頂けなんだ。おかげを下さるのは神様なんだ。だから取次者が、信者にお礼の要求をすることは出来ない。どうぞお礼は神様から頂いて下さい。
その神様から頂くというそのおかげが、やっぱ素晴らしい。今日のビリグイでの御ひれいは、神様から頂くおかげだから素晴らしいのです。私はもう本当にすさまじいというか、本当に人間の知恵やら力ではどうにもできないなと言った様なおかげを受けるのは、みんなこの理だと思うです。神様に作って頂くんだ、神様に助けて頂くんだとね。ただお取り次ぎしただけなんだ取次者は。
お百姓さんが種を蒔いたり草を取ったり、成程それはしとろうけれども、それを言うならば育てて下さった成長させて下さったのは神様だ。その証拠に、いくら畳の上に種を蒔いたって、肥料をやったって出来はしません。それこそお土地の御恩徳。天地の、言うならば天のお恵み、地のおかげというものを頂かなければ野菜一本出来ないように、同じ理です。商売でも同じです。ただ仕入させて頂く、集金にやらせて頂く。
根本の所は神様にして頂く。そういう意味で矢張り大阪の玉水教会に一大御比例が輝いたというのは、その理を玉水の湯川先生は悟られたのでしょう。今まではただどうぞお商売が繁昌いたしますように、どうぞ今から集金に行きますから、集金が寄りますようにと言うて願っておるそれは間違いだと。神様がご主人なんだと。主人はそこの支配人であり番頭さんである。家内はそこのまあ女中頭くらいなもんだ。その芯を握ってござるのは、神様だという観念。
これはちょっと分かりにくいですけども、今のお百姓さんの野菜作りの理から言うたら同じですから、それを思って下さればよいです。本当に神様の言うならば、もう十分のお力十分のお働きを、矢張り受けると言う事はです。私がこうしたからああしたからではない。種を蒔いたから肥料をやったからではない。その証拠にはそんならコンクリ-トの上に種を蒔いて、水をやっても肥料をやっても出きるか、出来ないでしょう。
天地の御恩恵に依らなければ、これは私どもが生きておると言う事でも、だから生きておるのではない、生かされて生きておるのだということが分かるでしょう。頭が痛いの足が痛いのと言ってもね、だから生かされておるのですから、言うならば生きておるしるし。それが有り難いのである。生きておるしるしに熱もありゃきつくもある。痛い痒い全てを感ずるそのことが、神様のおかげを頂いておるから感じているのだという見地に立たせて頂くと有難いですね。
神様に委ねるとか、任せるとかとこう言う。それは神様の働きを十分にすると言う事なんです。私が種を蒔くのじゃありません。私が草を取るのじゃありません。種を蒔かせて頂いておるのです。肥料を施させて頂いておるのです。ぎりぎりの所はあなた様のおかげを頂かなければ出来る事ではないという観念です。そこから言うなら任せると言う事が一番おかげの頂けると言う事が分かります。昨日ある方から電話がかかってきた。三十九度近い熱がある。もうすごい下痢をする。
夏の事ではあるし、悪い病気であってはならんから、お母さんが医者にかからなと言うけれども。本人はいいやもう御神酒さんと御神米でおかげを頂くと言いよりますからと電話を受けたとたん、電話機にカチイ-ッとおいさみが付きました。だからそれでいいですよ、それで安心ですよおかげを頂きますよと言う事が自信を持って言えれるわけ。もうあなたのおかげを頂かなければ出来る事ではないんですから、というわけです。いわゆる人間心を使わない。
今日は皆さん私の話を聞いて頂いて、今日の九十五節とどんな関わり合いがあるだろう。神を商法にしてはならん。世の中には神を売って食うような者がある。それはまあ、言うならば神社仏閣の言うなら御祈祷料を取らっしゃったり、お守り札をいくらいくらと言って売られると言う事は、矢張りそれを生活のかてにしておるんだと。生活の対象が仏様であったり神様であったりすると言う様な事を説かれておるんでしょうけれども。今日は、神を商法にしてはならんと言う事。
そこで商売をさせて頂く者がです。神様を集金人のように思うたりね、神様を言うならば小僧か番頭のように神様を使うような心掛けでは、反対の事になるから大したおかげにならん。神様が芯であり、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだと。だから十分に御用にはお使いまわし下さい。朝も早よう起きます。お商売をしとるなら、一生懸命実意丁寧に、お客さんに教えをそれこそ合楽理念を基にして商売をさせて頂きます。けれども、芯は神様。御主人は神様。
そこでそんなら番頭さんの、言うならば働き加減というものを神様がず-と見ておいでだから。ああこれは実意丁寧だ、これはなかなか熱心だと認められるから、給料なら給料がどんどん上がって行くようなもんなんだ。そりゃ神様が芯でして下さるんだから、こっちはもう、神様あなたが芯ですから、あなたが作って下さらなければ出来る事じゃございませんからどうぞよろしくお願いしますと言って。
野菜一本つくるでも、草も取らにゃ肥料も施さなかったらね、そりゃ本当の良い物が育つことも生まれる事もありません。商売でも同じです。なら取次者という場合でもそうです。神様がおかげを下さるんだから、もう取り次いだだけでそれでよいと言う事はない。そのためには一生懸命神様への奉仕を。成程眠くもある足も痛い。それでも神様のお守りをさせて頂く者は、こうあらなければならないと教えておられるその教えに基ずいて、言うなら合楽理念に基ずいて御用をさせてもらう。
だからこの取次者は言うなら神の本当の手にもなってくれる、足にもなってくれるというので、今度はその人が願われたおかげをそちらへ下さる。そこで信者は先生あなたのおかげでと言う事になってくるけれども、実は神様のおかげである。こうやってお話を頂いておりますともう今から、ただ今から実際は出来そうにあってなかなか出きんのが、神様がご主人私が使用人。野菜一本でも神様が作って下さる。私どもはその言うならば野菜作りの使用人ですからね。
真面目に実意丁寧に草を取ったり、肥料を施したりすると言う事。そこでそういう働きが日常生活の上に、的確にだんだん出来てくるような手立てが信心であります。聞いただけじゃあ、成程と思うてもおかげにならん。それが真からあなたのおかげを頂かなければ立ち行く事ではないという、言うならば思い込みが、そのまま本当のことですから。おかげで、本当にもう今日は、まあ言うなら十二分にお使い回しを頂いて、集金もこれこれ、売上もこれこれと神様へご報告をする。
そういう心持ちにならせて頂く。言うならば売上が伸びて、忙しいおかげを頂きゃあ賞与が例えば多いように、給料も高くして、人の何倍も頂けるようになるだろう。そういうおかげがすさまじいんです。私はきのうゆうべ遅う、東京の稔さんが大祭に今帰ってきとります。で昨日の昼私が会えませんでしたから、また夜遅く夜の御祈念に参ってきて、私の部屋で、まあ色々信心話をさせて頂いたんですけども。
とにかく親先生、この頃神様が恐いお方だなあとこの頃しみじみ感じるようになりましたと言う。もう本当についこの頃までは、もうまあ言うならば親先生有り難うございますだけでおかげを頂いたけれども、それだけではおかげにならん。言うなら金光様と唱えただけではおかげにならん。例えば市場に魚を仕入に参りますでも、バスで行くんだそうですけども、バスの中で乗ったきり物を言わない人というので有名になった。もう乗ったが最後市場に着くまで、それこそ親先生有り難う御座います。
生神金光大神様。または天津祝詞、大祓いと言うので、もう口を開かない。でこの頃そのことが話題になるくらい。いわば神様を頂き、親先生を頂いとるけれども、頂いただけでは、もうおかげにならんことが分かりました。何時もここで言われる、拝まにゃ通さん。一生懸命参ってくる、一生懸命拝むといっただけでおかげを頂いた時代があったけれども、もうこの頃は、それではおかげにならん。
言うなら改まらにゃ通さんと言う様な、改まらにゃおかげはやらんぞと言う事が分かってきた。そこで自分という者が段々分かってきた。成程これではおかげが頂けんと言う事が分かってきた。そこから言うならば改まらにゃならん、それを改まらないと、言うならお気付けを頂く。もうこれ程繁昌しておるのに、二日も三日ももう殆どと言って良いほど商いがない事があるというこの頃。もう驚くばかりと言うて、家内里子さんと二人でそのことを。もう本当にそう言う事があるなあとね。
だから神様を頂いとると言うだけではいかん。拝んでおると言うだけではいかん。もうこれは俺たちが改まらなけりゃ、おかげは頂かれんぞと言う事が分かってきて、言うなら、油断すると神様は恐いお方だと言う事が分かってきたと言うてその話をしたわけですけども。だからもう本当に最近、いわゆる合楽での合楽理念のマスタ-。合楽理念を本当にもう行ずる以外なか。そこには研きもせんならん、改まりもせんならん。しかも楽しゅう言うならば出来る手立てが、合楽理念だから。
今度は合楽理念の方の勉強を少ししなければいけないね、というて話した事でした。そしてとにかく稔さん何ででも良いから、どう言う事でも良いから一つ日本一を目指しなさいと私がね。「十三日の日にね、伊万里の竹内先生のところのお礼お届があったよ。どう言う事かと言うと、先生がこの頃講演に見えた時に、とにかく一般の伊万里の市民の方たちが、本当に内の市長は日本一だと。また間には日本一悪い市長だという人も中にはあるそうですけれども。
だから日本一に悪い市長、日本一に素晴らしい市長という、その真ん中にいつもおる」とこう言う。もうとにかく皆さんあの時話を聞かれたように、それこそ起きてから言うならば御用なさる中に、もうそれこそ合楽理念を基にして、伊万里の市政というものが運びになって行っておる。今度総理大臣賞を受けられた。市長としての伊万里市として、いわゆる日本一。これはたった一人だそうです。それを何とか大臣賞というのが十六名ある。十六市あるそうです。
総理大臣賞というのは伊万里。だから日本中にたくさん何なに市というのがあるけれども、その言わば日本一になられたという話をね、昨日の話です。 だからそれを皆さんにするのです。だから、合楽理念をもってするならば、丁度こちらを出る時に末永先生から手紙を頂いた。その働きの素晴らしいこと。それから新聞を読ませて頂いてもう感動せずにはおられない。何時も末永先生のことを書いとる。
その感動せずにはおれないほどのならブラジルの地で、ああいうすさまじい御比例が輝いておるというのは、いわゆる合楽理念を基にしておるからなんだ。なら合楽理念の基は、そこには一つも末永建郎というものは無いのです。伊万里市においても、そこに竹内通教というものが一つも出てこない。一から十までが親先生のおかげでとこ言うのである。親先生のおかげと言う事は、金光大神のおかげであると同時に、天地金乃神様のおかげであると言う事に帰結するのです。
ですからそういうすさまじい、少し調子がよいと売れた売れたまた売れたというごたるふうになってくると、どうしても人間横着になってくる。いかにも私のやり方が良かけんで繁昌しとる。成程繁昌しとるけれども、その繁昌は他愛ない繁昌である。必ずまた水泡に帰すような結果が必ず生まれてくる。一から十までが神様のおかげで、私どもはその言うならば使用人であり、そういうおかげを頂かしてもらう。ですから本当に純真にそういう心の状態でさして頂くと言う事。
だからそれ以外のお取次をさして頂いて、お願いをしておかげを頂くと言う事はです。言うならば、ある意味で神を商法に使うておる、神様を使こうておると言う事になるのです。使われてと言う所が、だから必要になってくるのです。いや何時もが使われておるんだと。私が社長さんでなくて、神様が社長さんだと。そこに何時も社長さんの顔色を見とらなければならない。社長さんがブ-としてござる時には、ああこっちに何か手落ちがあったんじゃなかろうかと思うて、いわゆるお気付なんです。
そこからハッとまた改まって、精進をさせて頂くと、また社長さんの顔色が良くなる。そういう生き方を、愈々身に付けて行くと言う事。言うならば神様の顔色を見取れれるような信心が頂きたい。いわゆる昨日の稔さんの話を聞いとると、少しそこの所が分かってきた。もうどんな神様が顔色をしてござろうがです。もうそれこそ駄々をこねるように、ただ甘えるように、それだけでもおかげを頂いたが。
おかげを頂いて信心の成長を段々頂いて。また頂かして下さろうとする働きが、もう言うなら拝んだだけじゃいかんと言う様な事が段々分かってきて、いわゆる改まらなければね。昨日家内の里子さんが言ってました。本当にもう始末倹約と言う事は、銀座にいるときから真から教えられとるから、もう本当に言うなら私どもの方では、寿司やさんお箸の紙の袋がある。あれを暇なときにみんなこよりにしとく。そしてマッチをつけたら、それにちょっとけてお客さんに出す。
タバコのそれにすると。そればってんお前があれだけ始末倹約するばってん、お金は残らんじゃないかという話をしとりました。だからそのことがです。神様の御物と分かり、粗末には出来ない。いや合楽理念をもってして、心に心行をさしてもらうならば、その言うならばお箸袋一つでもお粗末には出来んという行き方になる時に、それがすさまじいおかげになってくるよ。それを、始末倹約のためにそれをしたんじゃね。
始末倹約して貯めたという人もあるけども、始末倹約をお前がそうやってやるけれども金は残らんじゃないかと言う事です。もう神様は始末倹約だけでは出来ん。言うならば改まってそれが出来、改まって心行が心の中に頂き続けられて、それがなされる所を神様が求めておられると言う事です。だから形だけでなくて心からその気にならなければならない所に、信心の精進と言う事が要るのです。
実感として有り難いというものが湧いてくる。その有難いという心で、そのこよりが依られる。有難いという心で、実意丁寧の仕事が出来る。その様子を御覧になった神様がそれを見逃しなさるはずがないと言う事です。それをなら如実に表しておるのが、竹内先生であり末永先生と言う事になるんじゃないでしょうか。言うならば神様と通うと言う事なんです。先日私は言おうと思って忘れとった。
繁雄さんに言わんならん事じゃったけども。合楽で一番おかげ頂いとるとは、久富繁雄ち頂いたです。どう言う事か知らんけど。ようと考えよったらほんに一家中の健康のこと子供たちのこと。娘やっておる娘、家別れしておる息子達のうえに成程、別にほんならこう、さあ蔵が建った家が出来たと言う様な、その輝かしいとまではいかんけれども、何とはなしにおかげを受けておる。
言うならば心配がない皆んなが。何となしに一様におかげを頂いとる。もう内にはおかげ頂いとるばってん、あの息子だけにはもう何時も親に気をもますというのがおらんということですね。みんなそれぞれにもう言うなら親が手を放して安心して居れれるようなおかげを受けておる。家庭の上においてもそうだと。んな事これ久富繁雄さんが一番おかげ、そういう意味で頂いてあるなというふうに思ったんですけどもね。なら今日のお野菜を作ることだってそうです。
天地に対する御恩徳というものが、百姓しておれば一番実感として分かってくる。もう、今はそげな事はないでしょうけれども、昔は当時の椛目に参って見えておられる時分は、やはり化学肥料ばかりでなくて、いわゆる肥やしを蒔いたりする。本当にご地面をみだりに汚すなよと教えられるが、本当にこんな汚いものをこれはもう肥やしじゃけんで、当然あたりまえの事とせずにね。済みませんちょっとよけといて下さいと言う様な心で肥やしを蒔きます、という話を聞いた事があります。
はあこの人が違うのはこの辺ばいと、思うたことがあるんです。肥やしを蒔くだけこれは仕方がない。もうどこへ行ってからでも、小便やらその大地を汚すような事は、勿論金光様の信心をしとれば段々せんようになりますけれども。けど肥料だけはこれは仕方がなかと言った様な割り切ったもんではなくて、どうぞ神様ちょっとよけといて下さいというような心持ちなんです。そういう信心をさせて頂く所から、何時も神様と交流しておる。繁雄さんが畦道を通りよんなさると、野菜が呼びかけるげな。
痒かとか痛いとかそんな感じがするわけです。それでちょっとこう覗いてみると成程ここにこんな虫が付いとったけん、ほんに痛かったろう痒かったろうと言って取るような心持ちがね。もうすでにお野菜と交流しとる、天地と交流しておる。それがならそれこそこれから先でもドライな信心、割り切った信心でなくて所謂これで済んだとは思いませんと言う様な行き方の信心がです、神様と交流する有難いというものが頂ける。
その有難いというものがなら過去においてそ、の繁雄さんの信心を言っても、様々なことがありました。けど様々な事をただ有難しの一念で受けて通られた。と言う所が私は繁雄さんが一番おかげを頂いたというのは、そう言う所じゃなかろうかと。今日私はご神前で頂いた事はあの蓮根のね、こう長い節のとこに黒くなった所があるでしょう。ここは普通食べるときに切って捨てますよね。けども信心の上においてもです、これを切って捨てるような氏子がおるです。
切って捨てるようなおかげ、氏子の上にはただ神様があげんして一生懸命頼むけんおかげやらじゃこてと、いうて蓮根食うて下さるようなおかげだけしか生まれんと言うのです。信心というものは、このここをこう切って捨てずに、この節を大事にしていく氏子の上におかげが受けられる、お徳が受けられると仰っておる。今日はこの事を頂いたんです、何か難儀な問題が起こってくると、どうしてという心やらそんなものは取って除こうごたるというのでは、おかげは頂いても徳にはならんと言う事です。
これは私の青年時代からの座右の銘というですか、帳場の横に書いて置いておりました。「節を大切にする人は伸びる」と書いておった。だからその節を大切にする人切って捨てない。これはもうかならず伸びるる。けどもその節のとこだけは、もうこげなものは食べられんといって切って捨てるようなことをするから、神様が蓮根食うて下さるようなおかげは頂ける。信心が出来て頂くおかげというのと違う。力を頂いて受けるおかげとは違う。言うなら東京の稔さんの所ので言うならば、今まではです。
神様が蓮根を食うて下さって、おかげを下さりよったけども、もう言うならこの黒い節のところを大事にせろよ。不如意な事があった時には、こりゃここん所を神愛と思うて有難く合掌して受けて行けよと、愈々成り行きを大切にして行けよという御神意なのです。だからそこを大切に合掌して受けていく行き方になってくるともう当然の事としてのおかげ。それこそ輝かしい言うならばおかげというのは、そこを通り抜けて初めて信心の有難さ、神様の有難さは分かるのです。
神様の有難さが分からせて頂いて、初めてその有難いという心で天地と通う様になるのです。天地と通う様になるとです、例えばならお野菜が物言うてくれるのが分かるようになってくる。だから成程良いお野菜が出来るんだ、立派なお野菜が出来るんだと言う事にもなる訳ですね。今日は少し意味が広大になり過ぎた様な感じがしますね。九十五節からですが、神を商法にしてはならんという普通一般で言うならばです。金光様の信心は違う。お供えやらせんならせんでよか。
お金はいらんと普通神社仏閣では、ならお守り札がいくらであり、御祈祷料がいくらという。そういう信心ではないと言う事をです、これでは分からせて頂く訳ですけども。これをもう少し深く。この教えをおかげが受けられる。言うならお徳が受けられる頂き方をするとです。今日は商売の上だけのことではない。もう全ての上にです。合楽理念をもってする。そこにおかげの受け物が出来る。そのおかげの受け物に、いわゆる恵まれに恵まれ続けるおかげが受けられると言う事を、今日は聞いて頂いた。
自分がしている商売は、それはもう神を商法に使うておるようなもんじゃ。どうぞ集金の寄らんところをお願いします。まるきり神様を集金人のように思うとると言われても仕方がない。私が作った野菜そこにはです。そんならお前が作ってみりゃよかたいと言うて神様がもし手を放しなさる様な事になったら、言うならば出けない事になってくる。本当に神様おかげを頂いて、こんな立派なお野菜が出来ましたと。
いやぁそりゃおまえたちが一生懸命耕したり、肥料を施したり虫を取ったりして、からできたんじゃ。いやぁ(笑)神様あなたのおかげでと、両方からお礼が言い合えれる。番頭さんあんたが一生懸命やってくれるんで店が繁昌しとる。いえ御主人様のおかげでと、こう言う事になってくる時に、金光教の信心である所の本当の意味においての「あいよかけよ」の信心と言う事になってくる。言うならば親と子供が、言うならば喜び合える。神様と氏子が拝み合えれる合楽の世界が、そこから開けてくるわけですよね。
どうぞ。